2005年08月30日

見知らぬ他人の手

8/26(金)の朝日新聞夕刊に、斎藤恵美子さんの「八月のバスの中で」という詩が載っていました。

冷房の効いたバスに乗り、席に座り、「はおりもの」を着ようともそもそしていると、隣の席のおばあさんが手を伸ばして、ふっくらやさしい手で着せ掛けてくれた、という情景を詠んだものです(斎藤さん、こんなふうに要約してしまって申し訳ありません。でも、転載はいけないと思ったので)。
4783719705最後の椅子
斎藤 恵美子
思潮社 2005-06

by G-Tools

見知らぬ人に、その場限り、通りすがりの親切を受けたことがあります。
自分も、見知らぬ人にちょっとした親切をして感謝されたことがあります。
「小さな親切運動」を推進しようというのではないのですが、自分にとってたいした負担ではないのなら(負担が大きいと「してあげた」という意識が生まれそう...未熟者なので)、ケチケチせずにさくっと行動したいな、と思います。

で、そのように行動できたときの感触は「あ、参加した」という感じ。
会社勤めをしておらず、ふだん「社会」との接点が小さいぶん敏感なのかもしれませんが、「親切をした」というよりは「社会のメンバー」だったぞ今の俺は、参加したゾ、という感触なんです。

◇◆◇

私たちが暮らしている「社会」というのは、見知らぬ他人を無条件に信じることで成り立っている部分がありますよね。
道を歩いているとき、すれ違う相手がいきなりナイフで刺してくるかも、とは普通の人は思わない。
逆に、バスの中ですっと手を伸ばしてくれる人がいる。それが「社会」というもんだ、と意識して我々は育ち、暮らしています。

けれども最近、これが崩れかけていますね。地下鉄サリン事件以降でしょうか、顕著になったのは。

見知らぬ他人の手がナイフを握っているのでは、とびくびくする社会にはしたくない、見知らぬ手はふっくら(じゃなくてもいいけど)やさしい手であってほしい、と思うのでした。
posted by つきっつ at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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